スッと円の前に【ホワイト・レディ】が差し出された。
【御結婚おめでとうございます。店からのささやかなプレゼントです。】
マスターがさりげなく言葉を添える。
『ありがとうございます、マスター。』
『あ〜あ、なかなか来られなくなっちゃうなぁ。お酒も家で飲むだけかぁ。ねえ、マスター。このカクテルの作り方教えて。』
【ドライ・ジン。コアントロー、レモンジュースをシェイカーに氷と一緒に入れて、シェイクします。】
『コアントローって?』
【フランス産のリキュールの一種です。】
円は携帯を取り出すとマスターに向けた。
『もっとレシピを教えて。』
赤外線通信を終えるとマスターが言う。
【コアントローはホワイトキュラソーの一種でコアントロー社が製造しています。無色透明オレンジの香りと、まろやかな甘さが特徴なのですが、氷等で冷やすと淡く白濁する。これがホワイトキュラソーと言われる所以です。】
『マスターは何種類のカクテルが作れるの?』
【さぁ?数えた事が無いから。】
『マスターが一番好きなカクテルは?』
【わたしは飲めないんです。】
『え?それなのにバーテンダーを?』
【味はお客様が飲んで確かめてくれます。美味しくなければ2度とこの店には来ない。】
『随分危険な賭けですね。』
【そうですね、でも結婚も同じですよね。独身の私には危険な賭けに思えますけど、だって僅かの間のお付き合いで一生を決められるんですから。あっ、失礼しました。】
言われてみれば、大きな賭けだ。円もそう思った。
マリッジブルー。
多分そんなものなのだろう、この所実は迷い始めている。
彼は確かに優しくて、清潔感溢れる人、何より頼り甲斐が有る。堅実で真面目な人だ。
それなのに、ドキドキ感が無い。次に何をするのか時々先に読めてしまう。
贅沢な悩みだと皆言うだろう。特に鈴や彼女は。
自分でもそう思う。でも、・・・・・冒険を夢見ていた。
危険な香りに包まれて見たい。
ギリギリの攻防を・・・・この身が焦れる恋がしたい。
『はぁ〜。』
無謀な夢。
マスターの目が微笑んでいる。良かったね、と言う祝福と平凡な人生を選んだ私への憐憫。
私にはそう見えた。
【どうぞ。】
またしても目の前にカクテルが置かれた。
【ギムレット。】
『何故このカクテルを?』
【チャンドラーの小説の中でレノックスが言ったセリフですよ。『I suppose it's a bit too early for a gimlet』】
『ギムレットには早すぎる。?』
【ええ、そうですが、小説のタイトルを意識しました。円さんとは『長いお別れ』ですから。】
アメリカのハードボイルド小説の作者レイモンド・チャンドラーの有名な探偵小説。
フイリップ・マーロウが主人公のハードボイルドの中のセリフだった。
そのほかにも有名なセリフが有る。
『If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be aliv』
【男は・・・・『タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きて行く資格が無い。』】
【『プレイバック。』だね。円さんに捧げるセリフに相応しいのかな。】
【どうぞ、お幸せに。】
切なさがこみ上げて来た。
独身最後の夜でもないのに、なんだか自分だけが別世界に行ってしまうような気分になる。
『マスター。お名前を聞いていなかったわ。』
【マスターで結構です。】
何故か拒絶された気がする。胸がキュンと痛む。
マスターは花梨のカクテルを作っている。そして鈴のカクテル。どんどん私から離れて行く。
あぁもう酔ったのね。
帰らなくては。
その前にお化粧を直して・・・・・
誰の為に?何のために?
いま何時?
マスターが微笑んでいる。しなやかな指がシェイカーをシェイクしている。
マスターがそっとカウンターを離れる。
チーフに変わっていた。
急いで裏口からそっと外を覗く。
カチッ、ホープスーパーライトの箱が閉じられジッポライターの蓋が閉じられる。
【ふぅ〜。】
紫煙が立ち込める。
煙が沁みたのか、目を細めて虚空を見た。
痛い。チクリと胸が痛む。
男の人の喫煙は嫌いだった。
彼も煙草は吸わない。・・・・しかし夜の帳に紫煙が一筋、映画の場面がよみがえる。
ボギーもこうして吸っていた。
映画の様にセクシーな立ち姿。寂しそうな背中。
そっとその場を離れた。
見てはいけない風景。
Barの中には、花梨、鈴、彼女が小粋にグラスを傾けている。
こうして4人で飲むのは多分最後の夜。

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