【ドルチェ・アマービレ】(16)

 ♪砂山の砂に   砂に腹這い  初恋のいたみを  遠くおもい出ずる日♪
♪初恋のいたみを  遠く遠く  ああ ああ  おもい出ずる日♪

 『教授?日本歌曲ですか?・・私寝てしまったの?』
 【よく寝ていましたね。石川啄木作詞:越谷達之助作曲の歌曲です。石川啄木は岩手県立盛岡中学2年生のときに堀合セツと出会いました、13歳でした。啄木は15歳頃から短歌にのめり込んだのですが、その頃から急速に堀合セツとの恋愛も進展したそうです。その後啄木は上京しました。二人がどうなったか判りますか?】
 『その当時ですと大変な遠距離恋愛ですね。中々逢えないのなら自然消滅じゃないですか?』
 【明治38年(1905)に友人の主催で結婚式を挙げることになったのですが、途中行方不明となり、花婿不在のまま披露宴が行われたのです。婚姻届は啄木の父一禎が明治38年5月12日に盛岡市役所に提出していました。実はこのとき啄木は仙台にいたのです。19歳の時です。26歳で死去する時に傍に居たのは妻セツでした。】
  【作曲家の越谷達之助は来年で生誕100周年ですね。啄木の短歌初恋を歌曲集『啄木に寄せて歌える』に収録しました。達之助がイタリア留学中に師事したチオーニが(モーツァルトはイタリア人の為にオペラを作った。)と言っていた事に感銘を受け日本の歌曲を作曲しました。】
  【玲子君と千夏君はまさに初恋を紆余曲折の上、成就させたのでしょう。これで玲子君が精神的に安定すれば、いい結果が出るでしょう。】
 【ついでに、綾歌君は少し歌曲についての補習が必要らしいから、歩きながら講義しましょう。】
 教授は私のお尻を支える手で、ギュッと抓った。
 【歌曲という言葉はさまざまな意味あいをもっており、歌曲とそれ以外の声楽曲との区別を一義的に行うことは必ずしも簡単ではありません、が、最も広い意味にとると、ソロまたは重唱で歌われる無伴奏ないしは器楽伴奏つきの声楽曲で、オペラ、オラトリオなどに含まれない独立したものを指します。この場合は民謡、童謡の類や、マドリガルのような多声歌曲なども含まれることになります。しかし一般には、特定の作曲家によって、芸術的意図のもとに作曲された独唱曲を歌曲(芸術歌曲)と呼ぶことが多いのです。19世紀以降の近代歌曲は、文学的な詩をテキスト(歌詞)にして、ピアノ伴奏をもったものがほとんどでです。
 この狭義の「歌曲」の歴史をたどるにあたり、まずは西洋音楽における声楽の歴史をたどってみましょう】
 またも教授が私のお尻を抓る。
 『あぁん、教授ぅ。何をするんですか?』
 【覚えの悪い子には、体で覚えて貰いますよ。】
 教授の顔は私からは見えないが、多分ニヤッとしているに違いない。
 だって教授は時々私を苛めるもの。教授は愛情表現の一種だよ、と仰るけど、とても恥ずかしくて、いやらしい事をするし、痛いこともする。
 でも・・・・最近慣れてきたのかなぁ? 
 ちょっとワクワクしている自分が居るの。これ教授には内緒だよ。知られたら、もっと苛められちゃう。

【1. 古代から中世の声楽曲は、音楽史をたどってみると、古代、中世を経て16世紀にいたるまで、他のジャンルに比して、声楽曲のもつ割合はひじょうに大きいものがありました。古代ギリシャでも、音楽は言葉と結びついて、宗教的な儀式、神話の伝承、ギリシャ演劇などで大きな役割を占めていました。しかし、この時代にどのように演奏されていたのかは、残されているこの時代の壁画等から、リラ、アウロス、キタラなどの楽器が伴奏に使われていたことを知るにとどまっており、研究者達の推測の域を出ていません。
中世になると声楽曲の主流は、キリスト教会の中で神に対する賛美や、儀式のために用いられる教会音楽となっていきます。6世紀末から7世紀はじめにかけて、それらの聖歌を、ローマ教皇グレゴリウスⅠ世( 540頃-604)が整理、再編成し「グレゴリオ聖歌」を大成しました。歌詞は原則としてラテン語を用い、単旋律、無伴奏、男声合唱(斉唱)またはソロによって歌われます。西欧のカトリック教会では、各国共通の典礼音楽として用いられ、9世紀ごろからは、ネウマ譜の普及ともあいまって、11世紀に至る期間、最盛期を築いて行きました。一方、グレゴリオ聖歌の単旋律に、ある一定の音程をもたせた、もうひとつの声部を平行して重複させる「オルガヌム」という技法が導入され、11世紀末には、斜行や反行によるオルガヌムがみられるようになりました。これが多声音楽のはじまりで、12世紀はじめに中部フランスの聖マリシャル修道院と、スペイン西北部のサンティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂を中心に栄え、平行オルガヌム、自由オルガヌム、メリスマ型オルガヌムへと発展して行ったのです。さらに12世紀末から13世紀中期には、「ノートルダム楽派」の音楽家たちの手によって、彼ら独特のオルガヌムも作曲されるようになりました。
しかし、この時期を境に、オルガヌムは次第に衰退の兆しを見せはじめます。それに代わって声楽曲の重要な型となるのは「モテット」です。ノートルダム楽派のオルガヌムの一部を書きかえ、さらに新しい歌詞をつけ加えて歌うことからはじまり、二重モテット、三重モテットとなって行くのです。ギョーム・ド・マショーに代表される「アルス・ノヴァ」のモテットも含めて、14世紀の音楽は、フランスを中心に栄えて行ったのです。
教会音楽はその後、14世紀後半から15世紀にかけての、ギョーム・デュファイ(1400頃-1474)に代表される「ブルゴーニュ楽派」と、ヨハネス・オケヘム(1425頃-1497)、ジョスカン・デ・プレ(1400頃-1521)に代表される「フランドル楽派」両楽派のミサ曲、ヱアット、カノンによって引き継がれて行きます。そして、ここまで発展してきた多声的な教会音楽を完成に導いたのが、16世紀末にあらわれた二人の偉大な作曲家、オルランド・ディ・ラッソ(1532頃-1594)とジョバンニ・ピエルルイージ・パレストリーナ(1525-1594)である。ラッソの音楽は、大胆で前衛的、国際的な性格が強く、宗教曲の分野では、主にモテットで彼の多才さを示しました。パレストリーナの作風はむしろ保守的で、その音楽は清澄で壮麗、そして崇高です。彼の作品は今日までカトリック音楽の模範とみなされています。
教会音楽が発展、完成されていく一方で、これら教会を中心とした職業音楽家の音楽とは別に、世俗歌謡芸術が、中世の騎士や貴族たちによって育まれていました。フランスのトルバドゥール、トルベール(10-13世紀)、ドイツのミンネゼンガー(12-15世紀)たち吟遊詩人の歌です。原則として、同一人物が詩人、作曲家、歌手を兼ねており、高貴な女性への憧れ、素朴な信仰心、当時の世相などをうたった詩が多くありました。ミンネゼンガーの伝統は、のちにドイツの商人や職人たちによってマイスタージンガーの芸術として継承され、18世紀まで存続して行きます。これら吟遊詩人の歌が「歌曲」の発展へとつながっていくのです。
16世紀末から17世紀にかけて、音楽の中心はイタリアに移ります。1600年ごろ「通奏低音」が作曲原理として音楽に導入されるようになると、歌の声部が、楽器群と完全に分離することが可能になり、歌はより自由な動きを得ます。この時期、ヴェネツィアのジョバンニ・カブリエーリ(1553頃-1612)、ドイツのハインリヒ・シュッツ(1585-1672)らが傑作を生み出しています。そしてこれらが、17世紀における「カンタータ」「オラトリオ」「オペラ」などの、中世とはまったく異なる原理に基づく声楽曲が生れた要因となったのです。
ここまで、声楽の大まかな歴史の流れを説明してきましたが、「歌曲」の起源にしぼって言いますと、10世紀頃から登場してくる南フランスのトルバドゥール、北フランスのトルベール、ドイツのミンネゼンガーなどを始まりと考えて良いと思います。そしてさらに、17世紀に導入された「通奏低音」により、歌が独立した旋律を歌うという意味で「歌曲」のあり方に一層近づき、さらに各国独自の型を持つに至るのです。】
 教授の悪戯は、話の最中ずっと続いていた。
 浴衣1枚隔てただけで、教授の指の動きが感じられる。支えたお尻をモミモミしたり、ギュッと揉まれたり、でもそれはまだ良いの。
 教授の指が大きく割り裂かれた足の付け根・・・・アソコに触れると、ジュンと濡れて来てしまうの。
 教授の指が縦割れに添って擦られる。鉤型に曲げた指の爪でアソコを掻かれると思わず声が出ちゃう。
 『あぁん。教授ぅ・・・いやん・・ダメェ・・』
 【は?どうしました?続けますよ。】
 教授は恍けているのだろうか?益々指の動きが大胆になって行く。私は教授の背中に顔を埋め、必死に声を押し殺そうとした。

【2 ドイツ・リートの発展です。 ドイツ・リートの原型は、17-18世紀にベルリンを中心に栄えたベルリン楽派の歌曲でです。代表的作曲家にヨハン・ライヒャルト(1752-1814)とカール・ツェルター(1758-1833)がいます。彼らはゲーテと個人的にも親交があり、この大詩人の多くの詩に作曲をしました。ゲーテ自身、詩の各節に同じ旋律が反復される「有節歌曲」を理想としており、二人をその理想の実現者として評価していました。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)は、ごく少数ではあるが、1785年から91年にかけて魅力的なリートを作曲しましたた。1787年には、続けざまに10曲近く作曲していることから、この年を“歌曲の年”と呼ぶことも有ります。これらのリートの中で、詩の各節の展開に合わせ、異なった旋律をつける「通作歌曲」の形式をもった《すみれ》《夕べの思い》などは、モーツァルトが詩に対してより積極的な関わり合いを試みた重要な作品です。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)は、ボンからウィーンに移った22歳以降、この地において作曲を続け、ドイツ・リートの分野でも重要な作品を残しています。初期の作品《思い》《アデライーデ》をはじめとする優れた作品を50曲以上書いていますが、何よりも彼のリート史上における大きな功績は、《はるかなる恋人に》で、数曲から数十曲をまとめて演奏する「連作歌曲」の形態をはじめて取り入れたことにあります。
“歌曲の王”フランツ・シューベルト(1797-1828)は、生涯に600曲余りのリートを作曲しました。彼によりロマン派リートは全盛期を迎えるのですが、そこにはゲーテ、シラー、ハイネ、ミュラーら、ドイツ詩壇の隆盛も大きく影響を与えています。シューベルトの作品で最も多いのは、ゲーテの詩で、《野ばら》《魔王》《ミニョンの歌》《月に寄せて》等、70曲以上に及びます。ミュラーの詩による連作歌曲集《美しき水車小屋の娘》《冬の旅》そして、厳密な意味での連作歌曲では無いのですが、彼の死後、彼の遺作歌曲をまとめて出版した曲集《白鳥の歌》は、“3大歌曲集”といわれ、彼の歌曲の頂点をなしています。
 シューベルトより2ヶ月ほど早くドイツで生まれたカール・レーヴェ(1796-1869)は、40年以上という長い創作期間のあいだに約600曲の歌曲を作曲し、特にバラードと呼ばれる分野で数多くの傑作を残して、当時の民衆に愛好されました。
フェリックス・メンデルスゾーン(1809-1847)は、ツェルターの弟子として、ベルリン楽派の伝統を直接受け継いでいます。彼のリートは、厳格な古典形式を守りながらもロマン的で、当時貴族階級と代わって文化の担い手となっていた市民階級に特に愛好されました。有名なリートに《歌の翼に》《ヴェネツィアのゴンドラの歌》などがあります。
ドイツ・リートの流れの上でシューベルトに続く大きな存在は、ローベルト・シューマン(1810-1856)です。彼は、初期の習作歌曲を別にすると、クララとの結婚を間近に控えた1840年に突然リートの作曲を始め、この年だけで130曲余りもの作品を生み出しました。彼の作品は、自身の持つ広い教養と文学的素養、ピアノ奏法に関する豊富な知識に基づいて、独自のスタイルを有していました。それは、歌とピアノが全く対等におかれる様式で、ピアノの独奏曲ともいえるような伴奏の上に、詩の朗読にも似た独唱部をおいたものです。これは、新たなリートのあり方(ピアノの役割の増大)を示したものと言えます。連作歌曲《リーダークライス》《詩人の恋》《女の愛と生涯》などに、この手法がよく表れています。
シューマンに才能を認められ、作曲家として世に出たヨハネス・ブラームス(1833-1897)も、優れたリートを残した作曲家の一人です。《五月の夜》《永遠の愛》《日曜日》や連作歌曲《マゲローネのロマンス》など、ドイツ歌曲の伝統を受け継ぎながら、彼独特の重厚な作風の中に、ロマン的感覚があふれた作品を数多く残しています。
ウィーンの作曲家フーゴー・ヴォルフ(1860-1903)は、ワーグナーの強い影響を受け、詩のリズムや言語の韻律を重視することに力点をおく手法で、300曲におよぶリートを作曲しました。一時期、一人の詩人の詩をまとめて作曲した作品群は、完成度が高く、その集中度と多様性においてシューベルトと並び称されるほどの、重要なドイツ・リート作曲家とみなされています。代表作に、《メーリケ歌曲集》《ゲーテ歌曲集》《アイヒェンドルフ歌曲集》などが有ります。
世紀の変わり目に位置する作曲家に、グスタフ・マーラー(1860-1911)とリヒャルト・シュトラウス(1864-1949)があげられます。マーラーの歌曲は、彼の創作の中でも重要な位置を占めています。9つの交響曲も、うち4曲は声楽を伴ったものですし、他の5曲にも、歌曲的な要素がしばしば取り入れられています。《嘆きの歌》《さすらう若人の歌》など、詩も自分で書いた作品の他は、古い民謡から取ったものが多いです。《こどもの不思議な角笛》《亡き児をしのぶ歌》などがその代表的なものです。これらの作品には、世紀末に生きる者の厭世観が表れており、時には分裂的な作風も示しています。一方シュトラウスは、マーラーと同様に世紀末的な雰囲気も有りますが、彼の場合は、それが職人的な澱みの無い創作態度で、時には技巧的、表現主義的、時には耽美的な作品を残しています。その作品数は約200曲に及びます。《献呈》《子守歌》《4つの最後の歌》など、演奏効果が緻密に計算された多くの優れた作品が含まれています。マーラー、シュトラウス二人に共通していることとして、これまでピアノ伴奏が主体であったリートから、オーケストラ伴奏によって表現領域の拡大を試みたことが挙げられます。
以降、20世紀に入ってからも、ロマン派の流れをくむ作曲家に、ハンス・プフィツナー(1869-1949)、マックス・レーガー(1873-1916)、ヨーゼフ・マルクス(1882-1964)、オトマール・シェック(1886-1957)らがいます。
一方、急進的な革新を行ったのは、十二音技法を導入し、音楽を機能和声の法則から解き放った「新ウィーン楽派」の作曲家たちです。アーノルド・シェーンベルク(1874-1951)、アルバン・ベルク(1885-1935)、アントン・ウェーベルン(1883-1945)の3人で、彼らの作品は、声も時には楽器のように扱われ、言葉の響き、音色、リズムを生かした作風がみられます。特に、ゲオルゲの詩に基づいて作曲されたシェーンベルクの連作歌曲集《架空庭園の書》は、重要な作品です。
その他、20世紀のリート作曲家としては、パウル・ヒンデミット(1895-1963)、ヴォルフガング・フォルトナー(1907-1987)、ボリス・ブラッハー(1903-1975)、ヘルマン・ロイター(1900-1985)、ヴェルナー・エック(1901-1983)らの名前が挙げられます。】
 真面目な話をしている教授なのに、手や指はいやらしく私を弄っている。
 さっきから、トントン、トントンとリズミカルにアソコの尖った淫核を刺激している。強くも無く弱くも無く、丁度良い強さ。
 やだ、私何を言っているんだろう?丁度良いなんて・・・キャッ、恥ずかしい。
 その時には私の腰が勝手に動き。教授の指にアソコを押し付けて腰を振っていた。
 『はぁぁん。・・強くう・・・いけないのにぃ・・あぁん、もっと弄ってぇ・・あぁんエッチな女の子になっちゃうよぉ・・・』
 でも教授は意地悪だ。それ以上は強くしてくれない。それでいて止めようともしない。綾歌は・・・もう・・もう・・。
 【3 イタリアの歌曲では、「イタリア古典歌曲」と総称される声楽曲の中には、はじめから「歌曲」として作曲されたものもあるが、オーケストラ伴奏のついた「モノディ」や、本来オペラの中に含まれるアリアを、のちにピアノ伴奏用歌曲として書き改めたものも少なくないです。
19世紀のイタリアでは、オペラ一辺倒だった当時の音楽界の事情や、イタリア人、生来の声そのものの美しさや、カンタービレな旋律に対する強い嗜好から、ドイツにおけるようなロマン派歌曲の発展はみられませんでした。この時期、ジョアッキーノ・ロッシーニ(1792-1868)、ガエタノ・ドニゼッティ(1797-1848)、ヴィンチェンツォ・ベルリーニ(1801-1835)ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)などが、少数の歌曲を残したにすぎません。
彼らに続く世代のイタリアの作曲家、フランチェスコ・パオロ・トスティ(1846-1916)は、カンツォーネにも近い平易で、耳になじみやすい様式で多くの歌曲を作曲しました。《セレナード》《理想の人》《夢》《マレキアーレ》など数々の傑作を残していますが、それらはいずれも、甘美なメロディと感情豊かなハーモニーで愛や人生を歌い上げています。
以降、ピエトロ・マスカーニ(1863-1945)、ルッジェーロ・レオンカヴァルロ(1857-1919)たちも歌曲を作曲しましたが、この国がイタリア歌曲として純粋な芸術歌曲を持つに至るのは、現代のオットリーノ・レスピーギ(1879-1936)、ステファノ・ドナウディ(1879-1925)イルデブラント・ピッツェッティ(1880-1968)、エルマンノ・ヴォルフ=フェラーリ(1876-1948)、ルイージ・ダラピッコラ(1904-1975)などの歌曲によってです。】
 【4 フランスの歌曲芸術は、詩においても音楽的響や香りを重視するフランス人は歌曲芸術においても独特の高い価値をもった世界を開きました。中世に起源をもつシャンソンの一種であるロマンスという様式が,17世紀中ごろからサロンを中心にもてはやされていましたが,18世紀に入ってから,エクトール・ベルリオーズ(1803-1869),シャルル・フランソワ・グノー(1818-1893),カミーユ・サン=サーンス(1835-1921),ジョルジュ・ビゼー(1838-1875)などが,ロマンスにメロディという様式を加えながら,フランス歌曲の発展にカを注ぎましだ。フォーレは60年近い長い創作期間中に多様な様式を試み,メロディの様式を完成に導きました。彼の作曲した詩人にはユーゴー,ボードレール,ベルレーヌら,フランス近代詩の重要な存在が含まれています。簡潔な書法によりながらも,詩の本質にふれて時には微妙に打ち震え,時には素朴に歌うフォーレの芸術には万人を引きつけるものがあり,ドイツ・リートにおけるシューベルトと比べられるでしょう。アンリ・デュパルク(1848-1933)も少数ながらすぐれたメロディを残しています。クロード・ドビュッシー(1862-1918)とモーリス・ラヴェル(1875-1937)の歌曲も重要で,フオーレと比べるとむしろ20世紀的な屈折した心理の反映が感じられ,取り上げられた詩の内容もより幅の広いものになっています。それに続く歌曲作曲家としてはダリユス・ミヨー(1892-1974)、フランシス・プーランク(1899-1963)、オリヴィエ・メシアン(1908-1992)などがあげられます。】
【5 ロシア、その他では、 ロシア歌曲史においてまず重要なのは、“ロシア国民楽派の祖”とされるミハイル・イヴァノヴィチ・グリンカ(1804-1857)です。イタリア音楽に影響をうけ、その作品は旋律優先の単純な歌曲が多い。
もう一人、ロシア歌曲の作曲家として、モデスト・ムソルグスキー(1839-1881)の存在を欠かせることはできません。《死の歌と踊り》《子ども部屋》などの連作歌曲のほか、かなりの数の歌曲を残しており、ロシア歌曲史上の頂点をなしたといえます。大胆な和声法、不規則なリズム、力強い表現を持った個性的な作品が多いです。
その他、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840-1893)、セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)、東ヨーロッパの、ベドルジーハ・スメタナ(1824-1884)、アントニーン・ドヴォルザーク(1841-1904)、レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928)、ベラ・バルトーク(1881-1945)、ゾルターン・コダーイ(1882-1967)、北ヨーロッパのエドヴァルド・グリーグ(1843-1907)、ジャン・シベリウス(1865-1957)、イルヨ・キルピネン(1892-1959)らが、歌曲史上に名を残しています。】
 【6 日本の歌曲ですが、 最後に、日本の歌曲についてもふれておきましょう。山田耕筰(1886-1965)、信時 潔(1887-1965)の二人によって、日本芸術歌曲の歴史は始まったといってもいいでしょう。特に山田は、1922年に北原白秋と、雑誌「詩と音楽」を創刊し、日本歌曲の創作に大きな影響を与えました。《からたちの花》《この道》など、多くの品を残しました。
彼ら創始者の精神は橋本国彦(1904-1949)、平井康三郎(1910- )、高田三郎(1913- )、小山清茂(1914- )らによって引き継がれますが、次の世代である中田喜直(1923- )、石桁真礼生(1916-1996)、畑中良輔(1922- )、柴田南雄(1916-1996)らは「新声会」を結成し、日本歌曲の歩みを大きく前進させました。その他、歌曲作品を残している作曲家には團 伊玖磨(1924- )、大中 恩(1924- )、間宮芳生(1929- )、林 光(1931- )、湯山 昭(1932- )、三善 晃(1933- )らがいます。】
 【こら、綾歌君ちゃんと講義を聞いていますか?・・駄目ですよ、特別Lessonに溺れては、帰ったらお仕置きです。浴衣の裾を捲って、私に見せるのですよ。】
 【あぁ教授・・・綾歌・・癖になりそうです。・・・見せるの好きかも。】
 綾歌は教授にっ恥ずかしい格好を見せる姿を想像して、アソコを愛液で一杯にしていた。そこを教授に見られると思うと、中からジュンと染み出してくる。
 胸を教授の背中に押し付け、乳首を刺激する。自分からする女の子になってしまった。いやらしい仕草で腰も振る。
 教授のお仕置きが密かな楽しみだなんて、どんどん綾歌・・イヤラシイ事が好きになって行くの。ねえ、教授ぅ、ツルツルのアソコ・・見てぇ。


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